大震災

自宅の電気が昨日の午後に復旧したので、ようやくいろいろな情報が入るようになりました。
おかげさまで、我が家は全員無事に過ごしております。まだ、生活をするのが精一杯の毎日ですが、あらためていろいろな事を考えさせられています。
前回のブログにも書いた結構大きな地震があった二日後にこんな事になるとは・・・。
当時、職場に私は一人でいました。
ここは、国道45号線沿いに立地していまして、海からもそう遠くないところです。
私は宮城県沖地震も体験していますので、大体の地震では変な意味で"慣れ"ているのですが、さすがに今回は揺れ始めてから"違う"と感じました。
なんといっても余震が治まらないのです。(現時点でもそうですが。)
地震
地震直後のR45
一斉に道路上の車が停止しています。信号も消え、ここから1km先は津波で今も通行止めです。
会社の研修で泉区の方にいた家内からはすぐに電話があり無事を確認できて一つ安心しましたが、息子と娘は学校なので安否が心配でした。
私も乾電池式ラジオをここには置いてなかったので(自宅には3つもあるのに・・・)情報が入らず、困っていると思い出したのがS会長からいただいていたポータブルTV。
バッテリーが残っている事を祈りつつスイッチを入れると、ものすごい事になっていました。
20分位でバッテリーが切れた後はこれからは、自分で判断して行かなければならない状態になりました。
娘の事は先ほどの通話で家内にお願いできましたので、こちらは息子の方へ行けば良いのですが、まだ私はこの時点では考えが甘かったのでした。
私の職場からは歩いて15分もあれば学校に行けるので、周りの様子を伺いながら待機していました。
交通網は遮断されていましたので、歩く人々で道路はいっぱいでした。
余裕を持って学校へ向かった私は途中から道路にあふれている水を見て気づきました。
"あっ津波がここまであがってきたんだ"
自宅は山の方にある私はやはり感覚がなかったのです。
水は海の臭いがしました。なんとか避けながら歩いていたらすっかり暗くなって来て足下も滑りやすい状態なので、だんだんこれはマズイとなってきました。
ようやく学校の近くまできたとき一人の女性から声をかけられました。
「どちらまで」
「そこの○○学校までなんですけど」と私。
「私はそこの食堂のオバチャンなんだけど。」と女性。
「私は二年生の○○の親で迎えに来たんですけれど、子供達は大丈夫ですか? 水の来ていない道路は?」と尋ねたら、
「子供達は無事に校舎の中にいます。去年は惜しかったですねー、今年は期待していますよ。道路はこの辺りは皆冠水しているから・・・、」とのお答え。
野球部というおかげかどうか名前で安否が判ったのはホッとしましたが、こんな時にも野球の激励をされるのもなんだかなーと思いつつも肚をくくり目の前の校舎へ向かって突入。
腰下まで水に浸かりながら何とか学校に到着。
校門にいた先生に案内されながら生徒の待機していた教室に到着。
暗くてよく見えない中、息子よりも先にまず部員のU君が来て、
「Uです。今度治療に行きたいので宜しくお願いします。」
続いてM君が「今日行けなくてすみません。」R君も「この前は行けなくなってすみません。」と来ました。
私は皆の無事な姿を見ただけで本当にホッとしていたものですから、「大丈夫、大丈夫心配しなくていいから」というのが精一杯でした。
この子達の明るく振る舞っている姿を見て大人の私の方が元気づけられました。
まだ迎えに来れないご父兄の方々のお気持ちを思うと胸が一杯でしたが、学校の立派な先生方におまかせして息子と帰途につきました。
ここしばらくは、野球のできる環境ではないでしょうけれど、無事な者は逆に言えば個々の能力を鍛えられる時間が与えられたと思って鍛錬したり、野球ができるという事のありがたさを本当に理解ができるための試練と笑って皆で野球のできるときを迎えて欲しいと心から願っています。

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